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私はいかにして詩集のタイトルをつけてきたか

野村 喜和夫 

私はこれまでに二十数冊の単行本詩集を刊行している。かなり風変わりなタイトルが多い。読者のみなさんの参考になるかどうか、そのいくつかの由来を語ってみよう。

私の第1詩集『川萎え』の「川萎え」はもちろん造語である。詩集のテーマは「失われた大地的生を求めて」。わが「少年の王国」を縁取っていた実在の「不老川」は、少年期の終わりとともに役割を終え、私の想像的世界の中で「地のほそい傷痕」にすぎなくなった。おまけに、現実の川としても、護岸工事を施されて、往時の自然の流れは見る影もなくなってしまった。それらをひっくるめて、「川萎え」と名づけた。音韻的には、母の実家があり、私の通った高校もある「川越」のもじりになっている。

第3詩集『反復彷徨』は、「独歩住居跡」を求めて渋谷界隈を繰り返し彷徨ったことによる。ポストモダン的な現代詩の書法を代表する詩集とされるが、じっさい、「反復」は、ドゥルーズの主著が『差異と反復』と題されているように、ポストモダン的な現代思想のキーワードのひとつだった。

高見順賞を受賞した第8詩集『風の配分』は、1990年代後半、パリ6区カトルヴァン通りのアパルトマンに住んだときの、その通りの名前による。カトルヴァンは直訳すると「四つの風」、つまり「東西南北」の意味である。「移動、律動、眩暈。いくつかの緯度と経度をくぐりながら、きらめく断章を繋いでつづけられる、詩人の不思議な旅」と帯にはある。

第9詩集『狂気の涼しい種子』は、意味不明ながら、自分でも美しいタイトルだと思う。第12詩集となる長篇詩作品『街の衣のいちまい下の虹は蛇だ』は、やや長ったらしい呪文のようなタイトルだが、虹を天の蛇になぞらえた中国の神話をふまえている。

私の代表的な詩集といってよい第13詩集『スペクタクル』は2分冊になっていて、『あるいは生という小さな毱』と『そして最後の三分間』から成る。どちらも収録された一篇の題名から採った。「スペクタクル」という総題自体は素っ気ないが、詩集全体のコンセプトを表す。「あとがき」に私はつぎのように書いた。「もとよりスペクタクルというからには。見世物的な表象というニュアンスが絶えずつきまといます。電子情報網にくまなく覆われたこんにち、眼に映じたものがそのまま真の生きられた現実であるとはかぎらないというわけですが、それでもやはり、いまもなお「眼は未開の状態にある」(アンドレ・ブルトン)と信じたいと思います。」

第14詩集『稲妻狩』は、加納光於のリトグラフ連作「稲妻捕り」を想起しつつのタイトルだが、「新妻狩」と読み間違えた読者もいた。

第18詩集の長編詩作品『ヌードな日』。タイトルは本文を書く前に思いつき、これで行こうと思った。「ヌード」には、「稲妻狩」同様、エロい意味は毛頭なく、カタストロフィックな出来事などによって剥き出しになった、という意味。エリック・セランド氏による英訳も、naked day ではなくthe day laid bareとなっている。じっさい、偶然だが、本詩集執筆中に東日本大震災が起こった。

第19詩集『難解な自転車』は、詩集中の一篇のタイトルから採った。ある日、家の門扉に、自転車が乗せられていた。誰が、何のために? つまり「難解な自転車」だった。

以下、駆け足で。第20詩集『芭(塔(把(波』は、マレーシアの小都市バトパハに適当な漢字を当てたもの。第21詩集『久美泥日誌』は久美という片思いの女性へのストーカー日誌だが、「久美泥」は「組み寝」の万葉カナ表記? 第22詩集『よろこべ午後も脳だ』は、どういう意味のタイトルなのか、自分でもわけがわからない。第24詩集『デジャヴュ街道』は収録された一篇から。既視体験を意味する「デジャヴュ」と「街道」をくっつけて、アッピア街道のごとき固有名詞化を仕掛けた。第27詩集『妖精DIZZY』は、私にとって眩暈(英語でdizzy)は妖精にほかならないから。

こうしてずらずらと私の詩集のタイトルとその由来を書き記してみたが、詩集の数といい、タイトルの付け方といい、自分でも狂っているような気がする。読者のみなさんは、あまり参考にしないほうがいいかもしれない。

了 

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