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   評論 中上健次 『十九歳の地図』所収「補陀落」

   評論 中上健次 『十九歳の地図』所収「補陀落

南野 一紀  

イントロデュース


 読者のみなさんは家族の葬式に立ち会ったことはありますか? あるいは、精神的に家族と離別したと感じたことはありますか? 家族の気持ちや内面を熟考したことはありますか?

 中上健次の「補陀楽」はファミリーロマンスの金字塔と言えるでしょう。

作者紹介


  中上健次氏と言えば、コトノハ文学教室の講師であり、すばる文学賞の受賞作家でもある中上紀先生のお父さんにあたる人なわけですが、「中上健次っていったいどんな人なの?」と疑問にもたれた方のためにも、中上健次氏本人について語っていきたいと思います。

 中上健次氏は和歌山県の新宮市出身の作家で、新宮高校卒業後、予備校を経て、羽田空港で肉体労働をしたのち、作家になった人物です。戦後生まれ最初の芥川賞作家としても有名で、『推し、燃ゆ』を書いたことで知られる、宇佐見りんも中上氏を尊敬しています。「中上健次以降の日本の作家の作品は文学じゃない」と言う人もいますし、「中上健次の死=日本近代文学の終焉」と言う人もいます。

 予備校時代は、あまり勉強はしなかったようで、新宿にあったジャズ喫茶に入り浸って、悪い遊びをしながらジャズを聴きあさっていたのだとか。ジャズ喫茶ヴィレッジヴァンガードによく入り浸っては、友人と語り合ったという思い出は、ジャズ作品集『路上のジャズ』という本に克明に描かれています。その本のなかには、「鈴木翁二 ジャズビレ大卒」というエッセイもありますが、中上氏もまた「ジャズビレ大卒」だったのでしょう。結婚したのちに、芥川賞を受賞し、有名作家になり、アメリカや韓国やフランスなどに滞在し、作家活動を展開しました。

 中上氏のことを、「気性の激しい性格の人だった」と言う人もいますし、「ジェントルでやさしい人だった」と言う人もいます。人によって、作品も人柄も賛否両論がわかれる作家なんでしょうね。

 一九九二年に他界された中上氏ですが、毎年、夏に「熊野大学」という和歌山県で行われる中上健次氏に関するセミナーには、多くの人が来ていました。

 その他、本人に関することで言えば、晩年は対人恐怖が募って、自室からあまり出ない生活を送っていたという説もあります。

 そんな命を燃やすようにして、激動の人生を送った中上氏ですが、本作「補陀落」はいったいどんな作品なのでしょう? 評論していこうと思います。

あらすじ


 あらすじは次の通りです。

 語り手は二人。姉とぼく。ぼくは予備校生だけど、ニセ学生をやっていて、フーテンの女性と付き合っている。でも、仕送りを睡眠薬などに使い切ってしまい、姉にお金の無心をしに行きます。そして、男の原型である土方の仕事をやりたい、と父親にあこがれて言います。

 一方、姉は賭博をやって儲けている男性と結婚し、子供もいます。

 毎日、反社会勢力から、殺されるんじゃないかという恐怖を抱えながら、生きていて、辛いことがあると、まぶたの裏に自殺した兄の姿を思い浮かべます。兄は一番目の戦争でアメリカ兵に殺された父親の子供で、それゆえにアメリカを恨んでいます。また、母親が二番目の父親とのあいだにできた姉と兄を置いて、ぼくを連れて、逃げ出したことを兄は恨んでいます。生前はよく酔っ払って、暴れて、逃げ出した母親を殺してやると言って、包丁を持って暴れました。

 ぼくは兄が姉に取り憑いているんじゃないかと思っているので、兄が好きではありません。また、姉は自身が兄に取り憑いているんじゃないかという思いを抱いています。

 姉は夫が朝鮮系の人と関わりがあることから、韓国人の着る服を着て、ぼくに見せたりもします。「貧しかったあの頃に、戻りたい」という内容のことも口にします。

 最後は、ぼくが姉にお金を無心してもらって、終わります。

 以上があらすじとなります。

本論


 ちょっと複雑で、厳密にあらすじを追うともっと複雑なのですが、あらすじにページを割き過ぎてしまうと読むときに興醒めになってしまうので、このくらいにしておきます。

 本作品のテーマは、「姉が兄を精神的に葬送すること」と「姉が兄への想いを断ち切れずにいる」というものが主題で、そこに「家族の分裂」や「フーテンであるぼくの自我意識」や「分裂した自己像」を描いています。

 姉と兄の物語は、ソフォクレスの三部作の最後の作品、ギリシア悲劇の『アンティゴネー』に範をとっていると思われます。

 アンティゴネーはオイディプスの娘で、妻であり母親である人が自殺し、盲い絶望したオイディプスに最後まで手を取り、付き合ってくれる女性です。オイディプスの死後は、戦死した兄が埋葬をされずに放置されている罰に耐えきれずに、兄の埋葬をして、罰せられて、洞窟で自殺します。

 この作品の素晴らしいところは、単にギリシア悲劇に範をとっているのみならず、中上独自のやり方で、しかも描き方が観念的ではなく、具体的な物語に落とし込まれているところです。それも背景に高度な抽象性が潜んでいて、それを美しい日本語に無理なく落とし込んでいるところが最高に素晴らしいです。中上文学は日本文学の最高峰と言えるでしょう。

 本作の読みどころは、当時の社会背景を意識しながら、しっかり無理のないような作品設定がなされているという部分にこそあります。中上健次の初期の詩的な要素と、中期特有の日本語の美しさや日本の伝統的な感覚がないまぜになっている、移行期の作品でもあり、私はこのバランスが好きです。

 私がおもしろいと思ったのは、対立関係にある、「兄と姉と父親のグループ」と、「母親とぼくのグループ」があるはずなのに、それを飛び越えて、姉とぼくが一番強い絆で結ばれているということです。

 そして、兄にもぼくにも、あたしのことをわかってほしいと言わんばかりに、家族の問題を一心に抱えている自分を受け入れてほしい、という切なる願い透けて見えるさまが最高におもしろいのです。

 しかし、ぼくはフーテン女性と一緒になって、姉の気持ちをほとんどわかっていません。身勝手でわがままなぼくを許してくれる姉の存在は美しく、描き方が類型的でありながら、これまでにない清新さを持っています。

 逆に「姉はぼくのことを理解していただろうか?」と考えると、おそらく相当に理解していたのではないかと思われます。まるで、「お前の考えることなんて、手に取るように理解できるよ」と言わんばかりに。この全的な包容力と、家族の物語を一心に受け入れ、それでも尊大な存在としてではなく、小さな一個人に埋没して死んでいってしまうであろう、献身的な姉の姿に人は感動するのでしょう。

 もちろん、兄も悲劇的です。ぼくも一見すると、ただ遊び歩き、甘やかされて、自由に生きているように見えますが、それぞれに苦労があることを姉は深く知っていると思われます。ぼくが「土方仕事をやりたい、男の原型だから」という言葉を発すること自体が、彼そのものが、観念的で卑屈な自分を許せないと思っている証拠であり、彼はおそらく、田舎から上京してきたばかりで、困り果てて、メランコリーに陥っているのでしょう。

 そんな彼の今後の成長も予期させるような物語であり、複合的で物語性が高いと言っていいでしょう。

 本作の成功は姉に焦点を当て、姉の語りらしい文体や言葉選びで物語を展開させていったところであり、「海へ」はぼく視点の物語であり、観念的で儚い点がいいのですが、この二つの作品の姉とぼくの魂がぶつかり合いを読んでも非常におもしろい作品だと感じます。

 中上健次氏の「補陀落」、名作ですので、ぜひ読んでみてください。

参考文献


中上健次 『十九歳の地図』 初版 一九八一年 河出文庫

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