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   あなたのためだけのあなたを探す旅に出る――モチーフの探し方は取材タイプがいい? 内省タイプがいい?――

南野 一紀 

   0.どうやってアイディア、モチーフを探すといいか

 エッセイでも、小説でも、詩でも、文芸創作だったらなんでもそうなんだけど、アイディアやモチーフをいかに見つけるかっていうのは重要な問題で、偉大な作家でも、素人の作家でもその部分は基本的に変わらないものだ。

 アイディア、モチーフの探した方っていうのはいくつもあって、執筆なんかやってると「南野さんは、どうやってアイディアやモチーフを探していますか?」なんて、話はしょっちゅう出てくるけど、僕の場合はマッサージを受けたり、旅行したり、好きな作品や人物に触れたり、好きな人間としゃべったり、考えたりする瞬間っていうのは、よくアイディアが出てくることが多い気がしてる。

 これはあくまで個人の雑感だけど、もっと普遍的な話をすると、村上春樹がエッセイで言っていたように、取材して何かを見つけに行くか、部屋の中で考え事をして何かを見つけに行くかという大きく二パターンにわかれる。

 今回はその二つのパターンのメリット・デメリットについて僕が日頃思っていることを書いていきたいとも思うので、ぜひご参考にしていただけると幸いです。

1.取材タイプのメリット・デメリット

 取材タイプっていうのは、要するに部屋の中で考え事をして、アイディアやモチーフを探すのではなく、外に出て、イベントに参加したり、旅行をしたりすることで、アイディアやモチーフを見つける手法なんだけど、これは行動を重視する人が得意とすることが多い。

 この手法は部屋で考え事をしているよりも、お金と移動の時間がかかるということで、インタビューとか人の話を聞くとかってなった場合、状況によっては人が関わってくるし、取材費もかかってくる場合だってある。

 これは人の精神っていうよりは、外部のものからアイディアやモチーフをとってくる手法だから、客観性が出やすい。

 しかし重要なのは、その書き手がその取材をすることの意義を見据えないと、なんでこの人こんな取材したんだろうということになる。

 結局、人間の人生の時間なんていうのは、あっけなく人生の深みに対してあまりに短いから、人間のできることは限られていて、その中で自分はこれが好きだとか、これが得意で継続してきたとか、そういったものの方が周囲からは理解されやすいだろう。

 相当な有名人でもない限り、専門や相当こだわりのある分野以外のことを話されても、普通の人は聞く耳なんて持つわけもないから。

 さっきは行動を重視する人が得意とすると書いたけど、本当に精神を重視する人は逆に言えば、何をやっても精神美に考え向かっていくので、精神美が深すぎる場合、理解を得るために行動するのも悪くはないと思う。

 それでも外界のものに左右されるという点において、どんなにデフォルメしても、アレンジしても、その時点でこの手法そのものは理念や美学からはあまりに遠くかけはなれているから、一過性のものというふうになりがちだし、その人間の美学や個性が薄まるがゆえに、およそ文学というよりは、他のジャンルの芸術文化に勝てないという気がしている。

 正直に言えば、この手法をとってしまうと基本的にはどう足掻いても、映画やファッション雑誌やヨーロッパ人の投稿するインスタグラムには勝てないんだろう。

2. 内省タイプのメリット・デメリット

 僕は外に出て取材も好きだし、観光と文学をつなぐエッセイみたいなのも書いてるから、旅行せざるを得ないんだけど、僕は自分の精神をじっと見つめて、アイディアやモチーフを探す方が好きだ。

 外部のものっていうのは結局、動画とか写真とかを撮影した方が全体が見える。文章っていうのは、精神の外部のものに関しては一部しか表現できないから、動画や写真を見て、受け手がどう思うかを促した方がいいと思っている。

 世界文学の最高であるダンテの『神曲』も『新生』も書いているのは精神美や結婚の美学についてだし、およそ現実のことは加味されているにしても、基本的に書いていない。

 偉大な経営者とか哲学者とか美学者だって、みんな書いてるのはエッセイだし、ほとんどが精神論だ。

 精神美の深みに達し、議論が成熟するほど、外部がいかに関係がないことかというのはほとんど誰しもが気が付く。

 そうである以上、文学の領分であり、美学や経営理念の領分というのは、精神美なんだろう。

 それでも頭でっかちだとか、精神が勇敢であっても、外界とのコミットメントがないと認めないという人間が一定数いるから、本当に多くの人間に意見を広めにいく場合は、精神を見つめることのみをやっているわけにもいかないのだけど。

 もちろん仕事をする以上、ある程度どんな仕事でも、外部とのコミットメントや周囲への社会的説明責任や、ファンを作るということなしにはなし得ないし、それでも最後は精神美がすべてなんだろう。

 「人間には二つの力がある。精神と剣だ。そして最後には必ず、精神が剣に打ち勝つ」。

 これはフランス革命後、収拾がつかなくなった時代に、どっかのアホがいっていた言葉であるが、これは至言だなぁと思う。

3.結び

 コトノハ文学教室は日本語の美しさ、イタリアの文化を大切にする教室で、中上健次先生や現代詩の伝統を意識することをコンセプトに据えた場所です。

 その実、大切にしているのは、中上健次先生が誰より優れていた精神美と美学、そして勇敢さです。

 そういう教室ですので、もしご興味ある方はコトノハいらしてください。

 先生方はいろんな考え方を持っていて、コンセプトこそあれど、比較的自由な教室にはなっていますし。

了 

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