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評論 西村賢太『苦役列車』

評論 西村賢太苦役列車

冨田 臥龍  

イントロデュース

読者のみなさん、西村賢太さんを知っていますか? 

この前2022年2月5日、54歳で亡くなられました。

謹んで、ご冥福をお祈り致します。

作者紹介

東京都江戸川区春江町出身。

私冨田が住んでいる江戸川区出身の方です。

西村さんの父は性犯罪者で、ご自身は中卒。

アパートで家賃滞納をしながら、港湾荷役、酒屋の小僧、警備員、屠場での仕事などに就いていたらしいです。肉体労働が主であったといいます。

本が好きで、田中英光や、特に藤沢清造の作品に深く心酔、耽溺。

いくつかの候補や受賞ののち、2011年、『苦役列車』で、第144回芥川賞を受賞。

テレビ番組などに出演。

2022年2月4日夜、赤坂からのタクシー乗車中に意識を失い、病院に搬送されましたが、心停止で死去。死因は心疾患。藤沢清造の菩提寺の浄土宗西光寺(石川県七尾市)の清造の墓の隣に生前建てた墓に埋葬されました。

 石原慎太郎さんの作品の愛読者でした。

 奇しくも、石原さん死去(2022年2月1日・89歳没。)と、同じタイミングでした。

あらすじ

さて、『苦役列車』ですが、昭和後期の頃、19歳の北町貫多は日雇い労働で生計を立てており、父が性犯罪を犯したことで家庭は崩壊、中学卒業と同時に家を出て、港湾での荷役労働で暮らすようになります。日当は酒代と性風俗の代金に消え、家賃を滞納する日々。

港湾の仕事先でアルバイトの専門学校生の日下部正二が現れ、友人として仲良くなりますが、女友達を強引に紹介してもらい、その酒の席で暴言、セクハラ、パワハラでもめ、荷役労働の先輩の前野と喧嘩し、その会社に出禁に。貫多は別の荷役会社に移りますが、その日々の中、藤沢清造の私小説に出会います。

40歳を迎えようとしている貫多は小説家となり、川端賞を取ろうとしますが、受賞の電話が鳴ることは、ありませんでした。

本論

さて、どう読むか? ですが、もともと、中上健次さんのファンであり、中上健次文学の研究者である私、冨田にとって、中上さんと似たパーソナリティでもある、西村さんは、近い存在でした。ある種の親しさがある。慕わしさがある。実際、私には、現代作家の中で、村田沙耶香さんと西村賢太さんは、大きな存在でした。今でも、そうです。

彼の私小説的な世界は、極めて面白いです。西村さんは中卒ですが、極めて賢い人です。伊達に「賢太」という名前が付いているわけではない。文体も、世界観も独特。

とても、現代に近い時代の話とは思われないほど、別世界。異世界、とすら、言えます。

食べ物の描写、酒の描写、どれ一つとして、「ふつう」な描写は、ない。

宇佐美りんのように、すべてといっていい部分が、むしろ「ふつう」な世界と、正反対です。この、「貫多」という、怪しい名前の主人公が、抜群にいい。

中上健次の「竹原秋幸」以上に、リアルであると、いえます。

(秋幸は、わりとインテリ、エリート。名門ですら、あります。)

貫多の場合、「父親が性犯罪者」という、全く不名誉な逆エリートぶりが、光っています。

貫多自身も、神田・神保町を愛する、本好きなインテリの端くれではありますが、

藤沢清造という、ほぼ無名に近い、忘れられた私小説作家を、病的に愛好しています。

家の中に、清造の墓があるほど(卒塔婆か何か)のファンです。

貫多は女にももてないし、性風俗で女を買うわけですが、

それ以外では、怪しい、「秋恵」という女と暮らします。

今も、私冨田が改めて読み直しますと、すぐ文体と文章に魅了されてしまいます。

黽勉(びんべん)などという、きいたこともない言葉も、出てきます。(「はげみつとめる、の意味。」)顔写真を見ると、凄い顔をして、オカッパ頭で、髭ズラで、あらぬ方を睨んでいます。文庫本の解説は、石原慎太郎が書いています。

だが、間違いなく、いい作家です。

こういった、天然系の、動物的天才作家が、減りました。

昔は、すこしは、こういった人たちが、いました。

今の人や小説家は、みんな、去勢されたブロイラーの鶏のようです。

大量生産された、ボウフラのような、去勢された猫、

飼い慣らされた羊や豚、牛のような畜群。

ニーチェではないが、奴隷道徳に服従する、背広人足、のイメージが、捨てきれないです。

西村さんは、肉体は奴隷のように隷属して、肉体労働を行っても、

精神は、王侯貴族のように、自由であったと思います。

最近の人間は、一見、自由な貴族のような豊かな暮らしのようではありますが、

実体は、全くの奴隷です。

社会にプロテストすら、しない。できない。

西村賢太さんは、人間が人間らしくある、ということを考えた時、

出てくる実存を、文学の形で、示してくれたと思います。

彼は、一種の、高等遊民、貴族や王のようであったと思います。孤高の存在。

卑しい部分が、まったくないと思います。

貫多の不器用な労働や生活、人生、女買い、秋恵との日々は、濃密な日々であり、

人間が人間らしくある、その「強度」に満ちています。

一見、動物的に見える人は、たいてい人間的、知性的で、

いっけん、知的にみえる偽者は、大抵動物的であると思います。

その逆説の中に、人間がにんげんらしくあるということの不可解があると思います。

村上龍の、「人生の不条理というテーマは陳腐」という、西村賢太の文学への発言は、彼(村上龍)の文学および文学観が、決定的に通俗であることを、如実に物語っていると思います。(とはいえ、私冨田は圧倒的に村上龍の文学で育ったので、村上龍の文学を否定しているわけでは、ないわけですが。)文学の本質は、物語性もむろんあるが、そもそもは、文体の強度であると思います。筆力であると思います。

西村賢太文学は、自然主義や私小説の伝統を受け継ぎながらも、決定的にそれを再解釈し、いわば、脱構築していると思います。(この、脱構築(英 ディス・コンストラクション 仏 デコンショラクション)という用語も、やや陳腐ですが。)

オートロマンの一種ですが、ある種の錯視の構図のように、「自分語り」を相対化し、自分が自分を語っているわけです。語り手も、主人公も、「自分」であると同時に、「自分」ではない「何か」である。その妙が、いわば「絶妙」であると言えます。

国木田独歩、島崎藤村、田山花袋、徳田秋声などの自然主義や私小説は、もっと古風ですが、厳密には、私小説から離れる部分も、あります。太宰治、少し前の芥川龍之介、ずっと前の、夏目漱石や森鴎外の自伝的小説、みなそうです。

最現代のポストモダン状況において、再来した「私小説」は、もはや、以前の、古色蒼然たる、苔むした近代文学の中の「私小説」ではなく、現代小説の中の、ある種の実験小説であると思います。古井由吉のような、やや古風なものとも、三田誠広の試みとも、ちがっています。中上健次のように、ポストモダン状況下で、物語と神話、民俗学を再導入し、輸血して、再帰的に近代文学を「演じた」作家の、「秋幸」の私小説性とも、全く違っています。

現代というのは、もう、「モダニズムの祝祭」から、遠く隔たってしまったわけです。(今でも、東京圏において、地域的に見て、埼玉や横浜、中央線沿線で、僅かにモダニズムの残滓がみられますが、都心部では、モダニズムはもうとっくに終わっているわけです。)

今あるのは、村田沙耶香のように、近代文学から現代文学へ、そしてSF・ファンタジー・神話への回帰という、「ポストモダンの果て」に近づいているわけです。これは、津島佑子なども、先駆的に示唆していた方向で、中上健次の作品の最後期にも、見られていたものです。強度なき現代の実存を、物語なき現状をどう生きるかは、ちょっと前の俗悪社会学者たちも提示していた現代のテーマですが、解は簡単で、地方や下町の、「自然状態」に近い「異文化・異世界」で、「民俗学」から「ポストモダン文学」までを、再帰的に纏めていけばいいのです。それが、最後期の人類の文学の最前線であり、「近代の私小説の再帰的解釈」という「ポストモダン状況下文学」こそが、西村賢太文学であったと思います。

最良の西村賢太文学入門が、この芥川賞受賞作であると思います。おすすめです。(終)

参考文献

西村賢太『苦役列車』 初版 二〇一一年 新潮社

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