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評論 オスカー・ワイルド 『サロメ』

評論 オスカー・ワイルド 『サロメ』

南野 一紀  

イントロデュース

 読者のみなさんは幻想的な恋をしたことはありますか? あるいは、誘惑する女性の美に惹かれたことはありますか? サロメとヨカーナンは、ほんとうは相思相愛の関係にあったのでしょう。それは魔女のような女性と悪魔のような男性の恋の悲劇。

 作品の評論に移る前に、「オスカー・ワイルドっていったいどんな人なの?」と気になる方もいらっしゃると思いますので、オスカー・ワイルド氏の紹介をしたいと思います。

作者紹介

 一八五四年にアイルランドのダブリンに生まれます。父親は外科医でした。ダブリン大学のトリニティ・カレッジで学んだのちに、オックスフォード大学のモードリン・カレッジで文学の勉強をします。

 在学中に詩を発表し、賞を受賞したことがあり、またギリシア・ラテンの古典においては常に最優秀の成績を収めていたとか。「芸術のための芸術」を主張して、唯美主義運動の指導をしていた人物でもあります。

 本人はゲイでもあり、『サロメ』の英訳者である青年アルフレッド・ダグラスと男色関係にありました。そののちに、男色関係や破産宣告が問題となり、禁固刑にされます。

 そして、一九〇〇年に死去します。

 代表作に『サロメ』、『ナイチンゲールの赤い薔薇』、『ドリアン・グレイの肖像』などがあります。

 彼の名言もおもしろいので紹介します。

 「楽観主義者はドーナッツを見、悲観主義者はドーナッツの穴を見る」、「生きるとは、この世でいちばん稀なことだ。たいていの人は、ただ存在しているだけである」、「女は男に欠点があるからこそ愛するのだ。男に欠点が多ければ多いほど、女は何もかも許してくれる。我々の知性さえもだ」、「ほとんどの人々は他の人々である。彼らの思考は誰かの意見、彼らの人生は模倣、そして彼らの情熱は引用である」などの名言を残しています。

 そんなオスカー・ワイルド氏ですが、本作品『サロメ』はいったいどんな作品なのでしょうか。あらすじを紹介したいと思います。

あらすじ

 あらすじは次の通りです。

 ユダヤの王女サロメは祝宴の席を退屈に思っていた。そして、預言者であるヨカナーンを美しいと思い、その唇を欲します。ヨカナーンは肌が綺麗であるけど、そのうちに汚いものを抱えて生きているということをサロメは口にし、ヨカーナンの支離滅裂な言葉やその肌に惹かれていきます。しかし、ヨカーナンはその罪の意識から、サロメを悪い女性であると言い、罵倒し、近づけようとしません。

 そして、サロメは祝宴の席に戻り、父親でありユダヤの王エロドに「舞を踊ってほしい」とせがまれて、「欲しいものならなんでもやる」と言われて、舞を踊ります。

 舞を踊ったあと、サロメはなんと「預言者ヨカナーンの首が欲しい」とエロドに言います。そして、エロドは代わりのものならなんでもやると言いますが、サロメは聴く耳を持とうとはしません。そして、最終的にサロメは斬首刑にされたヨカナーンの首を手に取り、口づけをします。そして、父親のエロドによって、その罪のために盾に押しやられ殺されます。

 以上が、あらすじです。

本論

 筆致そのものが豊穣かつ、有機的な美しさを讃えていて、ただ単にギリシア古典などの影響を受けているのみならず、しっかり当時代的な世紀末の空気感を反映させているところに、その美しさはあると言えるでしょう。

 本作の読みどころは、登場人物たちの言葉であると言えるでしょう。

 王である、エロドがサロメの美貌に酔って、どんどん饒舌かつ、危険な言辞へと導かれていくさまもサロメの蠱惑的な要素が浮かびたっていて素敵ですし、預言者であるヨカナーンと、サロメが近寄れない関係性にあり、最後首を獲るところで、口づけをするという設定も悲劇的に残酷であり、美しいと思います。

 おそらく、本作品はギリシア悲劇の『オレステス』が下敷きになっているのではないか、とも考えられます。『オレステス』は『エレクトラ』の続編にあたります。『エレクトラ』は先王アガメムノンを愛人と共謀して殺害したクリュタイメストラを弟のオレステスとともに、エレクトラが殺害するという内容のものです。クリュタイメストラはアジアの女性奴隷を側近にしていることで有名で、エレクトラはアガメムノン王を敬愛するが故に、クリュタイメストラを殺害します。一方、『オレステス』は、クリュタイメストラ殺害後に、その罪によって、エレクトラとオレステスが投石の刑に遭う寸前で神々に救われる話です。ポイントは殺害した母親の呪いによって、オレステスが精神的におかしくなってしまうシーンがあり、それをエレクトラが見守るシーンにあると思います。

 この姉と弟の物語が本作品に強く反映されているのではないかと、私は感じます。

 姉のエレクトラも類型的な描き方がされていて、その女性的な悪さを突き詰めて描いたのが、本作の『サロメ』だと感じます。ロマン主義以降、このような誘惑や欲望に満ちた作品が出てくることは、必然だったと感じます。まさに世紀末文学の結晶でしょう。というよりも、ロマン主義の本質を体現しているとも言えます。

 本作品『サロメ』の挿絵を描いているのは、ビアズレーですが、同時代の画家の神話などの女性を描くのが得意とされていた。ギュスターヴ・モローも『サロメ』を描いています。

 世紀末芸術で有名なのは、エゴン・シーレやグスタフ・クリムトなどのウイーンの画家は有名ですが、彼らもまた誘惑する女性像を追いかけて、性愛の絵画を描いたのでしょう。

 現代においては、欲望や性愛の考え方がいきすぎているので、聖なるものやキリスト教的なものや倫理などが哲学や芸術の世界において求められていますが、当時は違かったのでしょう。

 作品のタイトルにもなっているヒロインであるサロメについても語っていきたいと思います。サロメは「ローマ人は粗野で貴族ぶっていて退屈だ」と言います。本作を読み解く上で、ローマという土地のことは意識して考えなくてはいけませんね。エロドが、ローマ皇帝が自分の敵の首を奪ってくれると言っているという発言なども、サロメの言動と有機的に折り重なって、作品中において成立していることも看過できないことでしょう。まるで、「ローマ皇帝にサロメ自身がヨカナーンの力によって、成り代わって世の中を席巻している」、という錯覚を呼び起こさせるのが、本作品のおもしろいところであります。また、サロメが父親であるエロドの前では、あまりものを語らず、抑圧されているさまや、女性が持つとされている、あるいは演じているとされている二面性を極端に描いているところが本作が甘美に仕上がっている所以だと思います。

 ヨカナーンが狂人のような言葉を発しているのも、まるで聖なる神の使いだからではなく、サロメの遠い誘惑や美貌に酔っているからそうなっているのではないか、という逆転の錯覚を起こさせるところも作者である、オスカー・ワイルドのうまいところだと思います。

 以前、紹介し、評論した、中上健次氏の「補陀落」はこれらの伝統を引き継いで、さらに1960年代の日本の時代背景を綺麗に反映させて、作り上げた作品で、おそらく、中上健次氏自身もオスカー・ワイルド氏の『サロメ』は読んでいたのではないかと思います。

 かくも美しく、恐ろしい作品が他にあったでしょうか?

 オスカー・ワイルド作『サロメ』、ぜひ読んでみてください。

参考文献

オスカー・ワイルド 訳者 福田恒存 『サロメ』 初版 一九五九年 岩波文庫

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