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評論 アルベール・カミュ 『異邦人』

   評論 アルベール・カミュ 『異邦人』

南野 一紀  

イントロデュース

 読者のみなさんは親が亡くなったのを機に、精神的に変わったということはありますか? あるいは、精神的にもう親には頼らないで自立しようと決心し、成熟を遂げた経験がありますか?

 本作品は「主人公ムルソーのなかのファミリーロマンスの終焉」について書かれていると思います。

 小説『異邦人』の評論に入る前に、「アルベール・カミュっていったいどんな人なの?」と疑問に思われる方もいるかもしれないので、作家本人について書いていきたいと思います。

作者紹介

 一九一三年生まれ。フランス領アルジェリア出身の小説家・劇作家・哲学者。一九三六年、アルジェリア大学の文学部を卒業。学位論文のテーマは「キリスト教形而上学とネオプラトニズム」だったそうです。代表作に『異邦人』、『ペスト』、『シーシュポスの神話』などがあります。

 一九五二年に刊行されたエッセイ『反抗的人間』は賛否両論で、特にフランスの作家サルトルは一切の政治的暴力を斥けるその「反抗」の論理を革命へと踏み出さない曖昧な態度だとして徹底的に批判しました。これをカミュ=サルトル論争と呼びます。故郷で起こったアルジェリア戦争に対しても、フランスとアラブの共同体という考えが捨てきれずに、曖昧な態度を取って批判を受け、フランスにおいて孤立します。

 一九五七年、ノーベル文学賞受賞。「不条理」、「反抗」を主題にして作品を執筆。マルクス主義や実存主義に反対に意志を示す。一九六〇年、友人の運転する自動車で交通事故に遭い、他界します。

 以上がアルベール・カミュについてなのですが、「不条理」という言葉をカミュがどういう意味で使っているかわからないという方もいるかと思うので、カミュが「不条理」という概念をどういうふうに考えていたかも記しておきたいと思います。

 カミュの言う「不条理」とは、「明晰な理性を保ったまま世界に対峙するときに現れる不合理性のことであり、そのような不条理な運命を目をそむけずに見つめ続ける態度が『反抗』であり、人間性を脅かすものに対する反抗の態度が人々の間で連帯を生む」ということだそうです。つまり、キリスト教などの宗教的な超越性に頼らずに、不合理な出来事である客観的必然を解釈し考えようとしたのが、カミュなのですね。

 この考え方は、カミュの著作に一貫していて、本作『異邦人』もその観念が底にあって、書かれているものと思われます。

 しかし、哲学エッセイ『シーシュポスの神話』のように、観念的な話は少なく、具体的な事柄がしっかり示しながら、作品が描かれているのも『異邦人』の小説としての素晴らしさだと思います。

 ちなみに、タイトルにもある「異邦人」という言葉は、要するに「外国人」という意味ですが、キリスト教や欧米の文脈で言うと、「約束の地(カナン)」を精神的に目指している、自分の精神的な母国である異国に憧れるけど、他の国に住んでいる人というようなニュアンスが出ます。

あらすじ

 あらすじは次のようなものです。

 主人公ムルソーはある日、ママン(母親)が死亡し、葬式に参加します。そのあとから、なぜかはわからないのだけど、アラブ人に付け狙われているという感覚に捉われて、実際に、アラブ人とケンカになり、ムルソーの友人はナイフで口を刺されてしまいます。ムルソーは友人と海へ旅行に出かけるのですが、その先にもアラブ人がいて、再びケンカになり、護身用に携帯していた拳銃でアラブ人を殺害します。

 裁判がはじまると、ムルソーはアラブ人殺害の動機を「太陽のせいだ」と供述します。その後、婚約者のマリィなどが面会に来るのですが、マリィのことを好きじゃないと考えたり、男性の友人を好きだと考えたりします。

 最後、神父が牢獄に来て、「神に懺悔すれば、罪は軽くなる」という内容のことを告げられるのですが、ムルソーは懺悔の意を示すことはありません。

 牢獄で死刑に日が近づきつつある、というシーンで本作は幕切となっています。

 以上が、『異邦人』のあらすじです。

本論

 ほんとうはもっといろいろな経緯や詳細があるのですが、概要としてはこんな感じです。

 ここで疑問になるのは、ムルソーはなぜアラブ人を殺害しなくてはならなかったのかということと、なぜ「太陽のせいだ」という意味不明な供述をしたのかということと、なぜ神父の言うことに従って神に懺悔しなかったのかということです。

 ここからは私の推測ですが、アラブ人はムルソーにとって訣別を告げなくてはいけない過去の比喩なんだと思います。つまり、アラブ人を殺害することで、母親の幻影から脱却を図ったということなのでしょう。

 もちろん、人によっては、「アラブ人を殺害してはいけない」、「これは植民地主義の小説で、アラブ人にもアラブ人のリアルな人生があるんだから、そこをしっかり考慮した跡が『異邦人』には見られない。故に、観念的な小説で現実を無視してる」という、『異邦人』の批判をする人もいます。

 しかし、ムルソーは自己防衛のためにアラブ人を殺害せざるを得なかったのも事実で、一度、友人が口を刺されているのも目撃しています。それが裁判の際に一切、語られなかったのはこの作品の謎でもあります。

 私個人は、小説というのはあくまで比喩的なものなので、右記のような『異邦人』の読み方はあまり良い読み方じゃないと考えます。

 ムルソーはなぜアラブ人殺害の理由を「太陽のせいだ」と供述しなくてはならなかったのでしょう。これはムルソーの内面告白でもあり、「太陽的自我の芽生えのせいで、過去と決別せざるを得なかったんだ」ということの比喩的な表現なのではないかと私は感じます。「太陽的自我」というのは、説明が難しいですが、欧米の小説で好きな人との訣別をする意味で、頭のなかで葬列を組んで好きな人を喪失したように、精神的な整理をつけるという内容の小説はときどきあります。ギリシア悲劇『オイディプス王』や『アンティゴネー』や『エレクトラ』はそれの代表格ですが、村上春樹の作品にもよく喪失感を表現した作品はあります。

 この欧米の小説の伝統とも言える、「葬送」というテーマですが、これの表現の仕方が画期的だったということで、カミュは評価されたのではないかと思います。繰り返しになりますが、超越的な視点に頼らないで、「太陽的自我の芽生えによって、自我を殺す」のがカミュ流であり、時代の存在論の矮小さを逆手にとっているような感じすらしました。

 そんなところがカミュ文学のカッコイイ部分です。

 先ほど書いた、三つ目の疑問、なぜ神父の勧めた神への懺悔を拒否したのかは、もう結論が出ていますね。

 超越的な視点、父親(=神様、法)に頼らない、というムルソーの精神的な意思表示が、神への懺悔を拒否した理由なのです。

 ムルソーはきっと牢獄のなかで、夜、色のない夢を見たことでしょう。色のない夢はムルソーにとって幸福だったのではないでしょうか? なぜなら、ずっと受難につきまとわれ、苦しい思いをいていたからです。

 牢獄のなかに小説上は入っているけど、実際に精神的には牢獄の外に出て自由になっているという、場面と内面の逆転も『異邦人』のおもしろい点だと思います。理由は明確には言えませんが、なんかカミュ文学らしいなという感じがします。

 そんなカミュの『異邦人』、素晴らしい作品なので、ぜひ読んでみてください。

参考文献

アルベール・カミュ 『異邦人』 初版 一九五四年 新潮文庫
アルベール・カミュ 『シーシュポスの神話』 初版 一九六九年 新潮文庫

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