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評論 三島由紀夫 『花盛りの森・憂国』所収「詩を書く少年」

   評論 三島由紀夫 『花盛りの森・憂国』所収「詩を書く少年」

南野 一紀  

イントロデュース

 読者のみなさんは自分の存在について考える前の、純粋で無垢な青春期を過ごしたことはありますか? また非有機的な幻想、文学少女が抱くような純粋観念を持ったことはありますか?

 三島由紀夫氏「詩を書く少年」は三島文学的恋愛美学や、若さゆえの自己の盲信や、存在についての考えが芽生える瞬間を活写した名作だと思います。

 本作「詩を書く少年」は三島由紀夫氏の作品ですが、「三島由紀夫っていったいどんな人なの?」と疑問に思う方もいるかもしれないので、作者自身について説明していきたいと思います。一度、「海と夕焼」の評論でも紹介をしていますが、改めて紹介したいと思います。

作者紹介

 一九二五年生まれ。東京出身。本名は平岡公威。東大法学部卒業後、大蔵省に勤務するも九ヶ月で退職し、執筆活動に勤しみます。代表作に『仮面の告白』、『潮騒』(新潮社文学賞)、『金閣寺』(読売文学賞)、『サド侯爵夫人』(芸術祭賞)があります。

 一九七〇年、自衛隊の市ヶ谷の駐屯地で割腹自殺して亡くなります。安保闘争の際に、日米安保条約に反対し、自衛隊に蜂起を呼びかけたのですが、失敗して、割腹自殺します。

 晩年は「楯の会」という、右翼団体を結成して、軍事訓練なども行います。

 当時はめずらしかった、同性愛者としても知られ、ゲイであることを告白しています。一説によると、森田必勝というイケメンの男性と恋仲にあったという話もあります。森田必勝にフラれたから、自殺を決意したという説もあるくらいで、私はその説を支持してはいないですが、ゲイであったのは事実なのだそうです。

 筋トレが大好きで、肉体の美も追求していました。美輪明宏に「文学者って筋肉がない、ひ弱な感じの人が多いよね」と言われたことがきっかけで、筋トレを開始したという説もあります。

 そんな三島氏ですが、「詩を書く少年」とはどんな作品なのでしょうか?

あらすじ

 主人公の「少年」はナルシスティックで、文学少女が夢見るような存在論なし、政治論なしの、純粋な詩的なイメージに酔っている純朴な少年です。しかし、早熟でもあり、十五歳にしてロマン派の詩人をはじめとする、さまざまな文学作品を読み漁り、丹念に辞書までも読みます。

 スポーツには芸術の持つ感動はないからという理由で、スポーツは愛好せず、花火のように華々しく生きて、散りたいと考えていました。

 しかし、あるとき、仲の良き文学仲間の先輩Rが人妻と恋に落ちます。Rは詩を書くどころの話じゃないんだという内容の告白をして、終いには、少年に対して君にはまだわからないよと述べます。

 少年はそのとき、Rを汚れたと感じました。凡庸を目指し、恋愛なんかするなんて。しかも、文学作品に描かれているような綺麗な恋愛でない、ありきたりな通俗の恋愛を。

 少年はRの話のなかに、恋愛や人生に必ず入ってきてしまう、夾雑物を見てとり、生きていることに対する嫌悪感や、自分はいずれ詩を書かなくなるだろうという予感を感じます。

 最後は、少年が自分が詩人でないことを悟るのはまだだいぶ先のことだったという内容の文章で締めくくられています。

本論

 本作の読みどころは少年のナルシスティックな感性や、少年の恋愛観や、自殺に関する観念や、存在に対する意識の芽生えだと思います。

 少年の生活への嫌悪感に女性嫌いの影を見て取るのです。女性というのは往々にして、生活や現実を意識して生きるものです。そんな女性的な感覚にとらわれることに対する嫌悪感が色濃く反映されています。もちろん、女性にもいろいろなタイプの女性がいて、一概にこうだということは言えないですが、傾向としてはやはりあるでしょう。

 少年が生に対する嫌悪感を覚えて、死を考え、そして自分の存在についての意識が芽生えたこの瞬間を上手に描いている部分がすごいと先ほども書きましたが、少年が存在に対する意識に芽生えたことは少年にとって幸福なことだと私は思います。

 なぜなら、ずっと非有機的な純粋観念のなかでは、人は生きられないですし、詩人としても大成しない可能性が大だからです。もちろん、少年は詩を書かなくなってしまうので、詩人としての才覚がなかったということなのでしょうが。ある意味で詩人とは、そういった純朴さや徹底した生の嫌悪感がないと続けられないというのが少年の美学なのでしょう。そして、それは実際のところそうだとも思います。

 外から野球のボールを打つ音が響いて、詩を書かなくなるだろうという、終わり方は歯切れが良くて好きです。

 まるで、その後、少年が現実を知り、死への思いをスパッと切り捨てる様子が目に浮かび、それを体現しているような終わり方です。

 ロマン派の文学者の読み方もおもしろいです。ロマン主義というのは、恋愛讃美や騎士道精神の復活を標榜していたものであり、本来、平面的有機的に物を見る志向性のもので、ロマンティックな幻想の愛とはいえ、生きる恋愛を標榜するですが、それを少年が都合のいいように誤読するのがおもしろいです。

 そもそも、ロマン主義の起源はダンテ・アリギエーリであり、彼がラテン語から俗語であるロマンス諸語で詩を書いたという文学革命、そして、フランス革命直後のその文学の再評価にこそ、ロマン主義はロマン主義と呼ばれる所以で、俗語による恋愛がダンテの標榜するものだったのです。

 ロマン主義の本質は喜劇的な結婚でもあります。つまり、少年が否定しているものそのものですらあるのです。

 それを強引に曲解し、都合のいい部分だけを読み、ロマン派の本質を理解せず、読んでいるところがおもしろいです。誤読というのは、なかなか書けないのですごいですよね。これは推測ですが、少年は多分ロマン派の詩人だけでなく、ロマン派の音楽も聴いていたでしょう。特にショパンをロマン派の有名音楽家なので、ロマン派好きを自称するのであれば、聴いていないということはまずないと思います。つまり、「幻想ポロネーズ」や「英雄ポロネーズ」を聴いているはずなのです。

 それなのにも関わらず、ロマン派がいい、というのは相当、文学に幻想を抱いていたのでしょう。それは純粋すぎるくらい無垢で少女趣味な幻想です。

 三島文学は「自殺」や「死」がテーマになりがちですが、本作はまだその萌芽が芽生えるところを書いた作品なので珍しい作品なのですが、「海と夕焼」や「憂国」へと続く、序章のような作品なのでしょう。

 私は本作よりも、『音楽』や「海と夕焼」の方が好きです。なぜなら、有機的な世界が前提になって、作品が描かれているからです。本作は純情すぎる。

 三島文学のマスキュリズム(仮面性)についても、述べておきましょう。

 少年=三島ではもちろんないですが、かなり弱みを見せないような鋼鉄の仮面を被っているように思います。隙がなく完璧で、ナルシステックな自我。告白もあまりリアルでないのが三島文学の特徴で、本心を曝け出すのが嫌いな文学者だったのでしょう。

 そのリアリティのなさが、三島文学の三島文学たる所以なのですが、そんな三島のファンはいまでも多くいます。

 冒頭の部分の、「そして、丹念に辞書を読んだ」というフレージングそのものが好きなのですが、詩というのは辞書的な定義をズラしたり、自分の持つバイアスをかけて使うものなのにも関わらず、丹念に辞書を読むところが少年らしいというか、いかにも文学少年だなと感じます。

 そんな三島氏の「詩を書く少年」ですが、ぜひ、読んでみてください。

参考文献

三島由紀夫 『花ざかりの森・憂国』所収「詩を書く少年」 初版 一九六八年 新潮社

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