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評論 トルストイ『イワン・イリッチの死』

   評論 トルストイ『イワン・イリッチの死』

さだ 

■イントロデュース

本作は、ロシアの文豪トルストイが作家活動の頂点にあった頃に生み出した『戦争と平和』、『アンナ・カレーニナ』執筆後に、多少の期間をおいてから発表された中編小説である。それ以前の作品がどちらかと言えば人間の悲劇性やその芸術性に焦点を当て、表象的人物描写をも熱心に描いていたのに対し、本作以降の作品では、精神の内面的省察や人生に対する拭いきれぬ疑念を色濃く押し出していくのが大きな特徴となっている。

本作で見られるのは、人間社会が抱える虚偽・虚飾に対するトルストイの厳しい批判の眼差しであり、それは後の大作『復活』へと繋がっていくものではあるが、こと『イワン・イリッチの死』においてはロマン・ロランが指摘するところの「生活の哀れな笑うべき空虚さ」といった、どこか滑稽で、喜劇的とも捉えられるような軽妙な味わいがあり、ここに他書ではなかなか得られぬような読書体験が潜んでいるように思われる。

■作者紹介

十九世紀ロシア文学界の巨人とも称されるレフ・トルストイは1828年、モスクワの南方にある自然豊かな地域ヤースナヤ・ポリャーナに生を授かる。彼は名門の伯爵家の出自であり、若い頃は社交界に顔を出し、放蕩の日々を送る時期もあった。1850年代にコーカサス戦争やクリミア戦争での従軍経験を持ち、この頃の体験は後の作品へ反映されていく。その後、ツルゲーネフからの引きもあり、文壇に登場した後はフランス文学の写実主義から強く影響を受けた作品群を発表していく。この頃の代表作に『戦争と平和』、『アンナ・カレーニナ』といった歴史に名を残す大作群が挙げられる。

しかし、やがて人生が抱える虚無感に苛まれ始め、自殺念慮を抱くようになるが、宗教的回心を経験してからは、単に執筆活動のみに留まらず、素朴な信仰生活を信条とし、民衆への抑圧に抵抗するスラヴ主義的社会運動を積極的に推進していくようになる。この求道性は作家活動後期の代表作『復活』や、『クロイツェル・ソナタ』、『光あるうち光の中を歩め』等を通して訴えられていく。

トルストイは生涯、人間の根源的葛藤や苦悩、理想への欲求、悲劇性を伴う情熱に対して、一切の妥協を許さず正面から挑み続けた作家であった。

■あらすじ

イワン・イリッチは妻子を持つ一判事として社会的にも経済的にもなに不自由の無いように見える生活を送っていた。ところが、ひょんなことからハシゴ作業中に足を踏み外し、死に至る病を患うことになる。鈍痛が増し、度々癇癪を振りまくようになっていく彼を余所目に、周囲の人間たちの態度は手のひらを返すように冷たく、イワンはそれまでの自身の人生が張りぼてであったことに気づいていく。

迫り寄る「あいつ」、すなわち「死」に捕まれ、絶望とともに為す術もない闇の底に臥す彼にあって、その心をなだめていたのはわずかに下男のゲラーシムくらいであった。ついに激痛が止まず、余命いくばくかという場でイワンは光明の彼方にある「本当のこと」を直観し、家族に赦しを乞いつつ、『死はなくなった』と喜びに満たされ、息を引き取る。

■本論

本作はトルストイが実際に癌を患った知人の話を基にして書いており、当然イワン・イリッチの壮絶な迄の宗教的体験と、真に迫る心理描写に中心主題の一つが置かれていると言えるが、ここで終盤の贖罪および神秘的体験のシーンに注目し過ぎてしまうと、本作でトルストイが提示しようとしたものの半面しか掬うことができない。イワン・イリッチを通してトルストイが提示しようとしたもう半面とは、生の場に巣食う嘘の存在と、嘘に気づかずにいる状態、すなわち欺瞞の盲目性についてであった。イワン・イリッチにおける欺瞞の盲目性は、結婚直後の妻との生活を通して垣間見えてくる。

自分の家へ仲間を集めて勝負を闘わしたり、クラブや友人の家へ出かけたりしてみた。しかし、妻はあるときおそろしい勢いで、口汚く彼を罵りはじめた。そして、夫が自分の要求をいれてくれないと、そのたびごとに根気よく罵倒を続けるのであった。

裕福な育ちのイワン・イリッチに畳み掛けてくる生活の必要は、彼を仕事へと逃避させ、勤務にまつわるより一層の名誉を欲するようにさせた。しかし、当然この名誉心は仕事への真正なものではない。

勤務上の喜びは自尊心の喜びであり、社交上の喜びは虚栄心の喜びであった。しかし、イワン・イリッチの本当の喜びは、カード遊びの喜びであった。

イワン・イリッチにとって、それが生活の忘却であれば、あらゆるものが喜びとなる。この、歓楽に身をやつす姿は若かりし頃のトルストイそのものである。ただし、この欺瞞は何も彼に特異なものなのではなく、社会が要求する欺瞞なのである。社会的名誉欲を満たすための婚姻、上品で「申し分のない」家具や壁紙、職場における上辺だけの人間関係、これがイワン・イリッチ個人の生にだけでなく、彼が所属する社会全体にも根付いているために、欺瞞は連鎖していく。欺瞞とは、個人の作為の下では連鎖しない。しかし、社会そのものが持つ欺瞞は個人を通して連続していく。欺瞞は連続しているがゆえに、人は盲目となる。欺瞞における盲目性は、その欺瞞が個人の欺瞞に由来するのではなく、社会全体が持つ欺瞞であるがゆえに発生する。このように社会生活を送る者は皆、避けては通れぬ伝染病のようなものとして、トルストイは欺瞞の盲目性を描写していく。

しかし、物語の中盤でトルストイはある出来事から、イワン・イリッチに欺瞞の存在を気づかせていく。

自分の口がいやな匂いをたてているように思われ、食欲も気力もしだいに衰えた。もう自分で自分を欺くこともできなくなった。

欺瞞を暴いていくのは、イワン・イリッチ自身が有する身体性である。病とは欺瞞を許さない最も身近な現象である。その中でも、特に痛みは、自身の嘘を許さぬ身体感覚である。痛みを持つものは、痛む、そのこと以外の表現は許されない。トルストイは痛みという共有困難な現象を逐一挟み込み、イワン・イリッチを欺瞞の盲目性から徐々に目覚めさせていく。

ただし、この目覚めは痛み以上の苦悩を伴うものになっていく。

イワン・イリッチの主な苦しみは嘘であった――なぜか一同に承認せられた嘘であった。……すべての人が、自分も知っていれば病人も知っていることを認めずに、この恐ろしい状態を嘘でごまかそうとするばかりか、彼自身にまでこの偽りの仲間入りをさせようとしている――この事実が彼を苦しめるのであった。虚偽、虚偽、彼の死の前夜に行われている虚偽!

嘘へ目覚めは、追憶とともに加速していく。

結婚……それから思いがけない幻滅、妻の口臭、性欲、虚飾! それから、あの死んだような勤め、金の心配、こうして一年、二年、十年、二十年と過ぎていったが――すべてはいぜんとして同じである。

世のあらゆるものが虚偽であり、虚偽でないのはこの痛みだけである。なぜ自分がこれほどの局外に追いやられねばならぬのか、この圧倒的な不条理は、イワン・イリッチのモノローグがリフレインされることで、雪崩のように押し寄せてくる。

そして物語は終局へと向かい、瀕死の病人は激痛によりのたうち回り、「深い穴の中へ落ち込ん」でいく。この時、そばにいた子どもに振り回した腕が当たり、子を哀れに思ったことをきっかけに、彼は「一点の光明」を認める。

そして、自分の生活は間違っていたものの、しかし、まだ取り返しはつく、という思想が啓示されたのである。彼は「本当のこと」とは何かと自問して、耳傾けながら、じっと静まり返った。

傍らの妻子の悲痛な様相を認め、彼は心から何かがこみ上げてくるのを掴み上げようとする。

彼はまた『許してくれ』と言いたかったが、「ゆるめてくれ」と言ってしまった。そして、もう言い直す力もなく、必要な人は悟ってくれるだろうと感じながら、ただ片手をひとふりした。

彼は痛みが消え、「死」の恐怖が消えたことに喜び、病との苦闘を終える。

イワン・イリッチが死の間際に掴んだ『許してくれ』の一言は、彼が直観した「本当のこと」、すなわち、虚偽が喪失した象徴として現れている。

トルストイはこのわずかな光を浮き彫りにさせるために、くどいほどに闇を構築していったと捉え、本作品を読むことも可能ではあるが、筆者としては、見方をむしろ逆方向にし、トルストイは一点の光を対称的に利用し、社会の欺瞞を糾弾した作品であったと捉えて然るべきだと感じる。なぜならば、トルストイがこれらの欺瞞を、実際に当時のロシアの社会問題に直結したものとして扱っていたからである。社会の欺瞞は現在進行系の問題であり、一点の光のために回収されて終わるだけの舞台装置ではないからである。

本作のストーリーが、今となってはある種の紋切り型として使われるプロットであろうとも、その中に宿された意志は、決して消えていない。

了 

■参考文献

『イワン・イリッチの死』トルストイ著 米川正夫訳 岩波書店

『トルストイの生涯』ロマン・ロラン著 蛯原徳夫訳 岩波書店

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