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評論 三島由紀夫 『花盛りの森・憂国』所収「海と夕焼」

   評論 三島由紀夫 『花盛りの森・憂国』所収「海と夕焼」

南野 一紀  

イントロデュース

 読者のみなさんは信じているものを、捨て去らなくてはならない経験をしたことはありますか? あるいは、異国への憧れをあきらめ、祖国への想いを強めようと決心したことはありますか? 少し大袈裟な話かもしれないですが、多かれ少なかれ、人にはそのような体験があるのかもしれません。もちろんない人もいるとは思いますが。

 作家紹介

 本作「海と夕焼」は三島由紀夫氏の作品ですが、「三島由紀夫っていったいどんな人なの?」と疑問に思う方もいるかもしれないので、作者自身について説明していきたいと思います。

 一九二五年生まれ。東京出身。本名は平岡公威。東大法学部卒業後、大蔵省に勤務するも九ヶ月で退職し、執筆活動に勤しみます。代表作に『仮面の告白』、『潮騒』(新潮社文学賞)、『金閣寺』(読売文学賞)、『サド侯爵夫人』(芸術祭賞)があります。

 一九七〇年、自衛隊の市ヶ谷の駐屯地で割腹自殺して亡くなります。安保闘争の際に、日米安保条約に反対し、自衛隊に蜂起を呼びかけたのですが、失敗して、割腹自殺します。

 晩年は「楯の会」という、右翼団体を結成して、軍事訓練なども行います。

 当時はめずらしかった、同性愛者としても知られ、ゲイであることを告白しています。一説によると、森田必勝というイケメンの男性と恋仲にあったという話もあります。森田必勝にフラれたから、自殺を決意したという説もあるくらいで、私はその説を支持してはいないですが、ゲイであったのは事実なのだそうです。

 筋トレが大好きで、肉体の美も追求していました。美輪明宏に「文学者って筋肉がない、ひ弱な感じの人が多いよね」と言われたことがきっかけで、筋トレを開始したという説もあります。

本論

 そんな三島氏ですが、本作「海と夕焼」はどんな作品なのでしょうか? 詳細を語っていきたいと思います。

 西暦一二七二年の夏のある日のこと。

 村の悪童から「天狗」と揶揄されている寺男の安里と、耳が不自由で、会話ができない少年が、鎌倉の高台で夕陽を眺めるシーンからはじまります。安里はフランス語が堪能で、少年にフランス語で過去の身の上を語るのですが、もちろん、少年は耳が聞こえていないので、独り言を言うような形になります。しかし、少年の瞳から、なにかを察していることを安里は理解しているようです。答えの返ってこない、会話のなかで、安里は語りはじめます。

 安里はフランス人で、昔、祖国では羊飼いをやっていました。ある日、キリストの幻が見えて、マルセイユへ向かって、トルコ人からイエルサレムを奪回しなさいという内容の啓示を受けます。そのときは、マルセイユには向かわなかったのですが、再びキリストの幻が見え、啓示的な内容のことを耳にすると、村を出て、弟子とともに、マルセイユに旅立ち、イエルサレムへと向かいます。

 道の途上、黒死病などで、多くの子供が死亡し、マルセイユに着く頃には人数は三分の一に減っていました。港で海が分かれるのを待っていると、船に乗った男に、イエルサレムに連れて行ってあげようと言われるのですが、最終的には、エジプトのアレクサンドリアにたどり着き、奴隷市場で売られてしまいます。そののち、インドへ売られて、日本人の禅師に助けられて、自由の身となり、恩に報いるべく、日本で仏教を学びます。

 そんな話をして、最後、あのキリストの幻や、海が分かれると思っていた信仰心や、異国への憧れはなんだったのだろうと思うけど、夕焼の時間になると、海を眺めてしまう、と語り、話は終わります。

 本作のテーマは、一言では表現しづらいですが、「異国への憧れを捨て去った人の悲しみ」を描いているのではないかと思います。

 熱烈にキリスト教への信仰を持っていた安里は、信仰心を捨て去り、仏教に身を委ねることには相当な苦心をしたのではないかと考えられます。その様子は、人の弱みを書きたがらないことの多い三島氏らしく、あまり描かれていません。

 安里が信仰心を捨てる途上で、あれだけの神秘体験や受難経験への想いを捨て去らなくてはならなかったのは明白です。人の魂が神話から現実へと戻っていくとき、ほんとうの意味での成熟は訪れるのかもしれません。もちろん、人によってそれはさまざまだと感じますが、安里の場合は、現実的な視座に回帰することが救いでもあったのでしょう。それでも、異国への憧れをときどき思い出してしまうというのは、いかにも人間らしくて、渋みがありますね。

 異国への憧れは基本的に、現状が特殊的な悲痛さを帯びていることに端を発すのだと思います。それを人によっては「受難」と呼んで、貴重なことと考える人もいます。逆に、それを高慢だと感じる人もいるかもしれません。異国に逃れたいという思いは、ずっと抱き続ける人もいますし、その気持ちを捨て去ることができる人もいます。異国への憧れに対する思いは人それぞれですが、それもまた現実離れした考えであり、幻想的なものなのでしょう。

 本作品はそういった意味で、アルベール・カミュ『異邦人』を想起させますし、遠藤周作の『沈黙』とは正反対のことを書いているようにも思えます。

 本作に対する批評は人それぞれあると思いますが、情景描写の美しさは天下一品で非の打ち所がないと言っても過言ではないでしょう。

 一部引用してみたいと思います。

 夏の日光が斜めになっていて、昭堂のあたりは日が山に遮られてすでに翳っている。山門はあたかも、影と日向とを境にして聳えている。木立の多い境内全体に、俄に影の増してくる時刻である。

 しかし、安里と少年ののぼってゆく勝上ケ岳の西側は、まだ衰えない日光を浴びて、満山の蝉の声がかしましい。草むした山道ぞいに、秋にさきがけて、鮮やかな種の曼珠沙華がいくつか咲いている。

 このあと、鎌倉の海と夕暮れと鰯雲の情景が描かれるのですが、安里が見ていない方の山の情景描写も巧みに描かれているという素晴らしい筆力ですね。このような描写力は私も身につけたいですが、そう一丁一夜で身につくものではないと感じています。三島氏ってやっぱり、すごい作家だったんだなと、今回の二読目で改めて感じました。

 個人的に海というと、あたたかく包容力のある海や、みんなが海水浴をして遊んでいる楽しい海というイメージがあるのですが、三島氏の場合は、まさしく「峻厳の海」といったイメージで、厳しさが露骨に出ています。

 通常、海を眺めるとき、過去の悲しかった記憶を忘却したり、楽しい思い出に浸ったりすることが私は多いですが、三島氏の描く海はまったく違うのでその部分にも驚きました。かといって、荒波を立てているような情景描写などはなく、あくまでも表面上は穏やかな海の情景が描写されている点が、本作の魅力でもあるのでしょう。

 私は作品に海がよく登場するのですが、スタン・ゲッツの「Voyage」のような「峻厳の海」を描くことは基本的にないので、一度、「峻厳の海」に挑戦してみようかなとか考えました。

 話は逸れましたが、安里が単なる仏教者や、単なる日本の愛国者ではないことが、克明に描かれている部分がカッコイイですよね。まるで、安里は「苦難の末に選んだ、苦渋の選択でもあるのだ」と言いたげです。

 本作の魅力がどのくらい伝わったかはわかりませんが、本作「海と夕焼」が傑作であることは間違いのない事実です。

 三島由紀夫氏の「海と夕焼」、ぜひ読んでみてください。

参考文献

 ※参考文献

・三島由紀夫 『花盛りの森・憂国』 初版 一九八六年 新潮社

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