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評論 大江健三郎『燃え上がる緑の木』

評論 大江健三郎『燃えあがる緑の木』(三部作)

冨田 臥龍  

イントロデュース

読者のみなさん、大江健三郎という作家を、知っていますか?

ノーベル文学賞をとった、おじいさんです。

大江光くんという、知的な障害をもった息子さんとのことでも有名です。

テレビなどでご覧になった方も、多いのではないでしょうか。

最近、ほぼ全集に近い、大きな集も出ました。

この大江さんについて、今回は取り上げます。

作者紹介

大江健三郎さんは、四国の愛媛県出身。1935年に生まれています。現在87歳。大家族に生まれます。故郷の森に囲まれた谷間の村は、大江文学にとって重要な場所(トポス)。

生まれて、小学校に入ったあたりで太平洋戦争。父が急死し、高校に入ってからもいじめに遭います。転校し、友人の伊丹十三さん(映画監督。伊丹万作の息子。惜しくも自殺。)と仲良くしていました。上京、予備校を経て、東大入学。小説で賞をとりはじめます。仏文に進み、渡辺一夫に師事。「奇妙な仕事」「死者の奢り」などで激賞、デビュー。「飼育」で芥川賞。東大卒業、卒論はサルトル。光くんのことを取り上げた小説『個人的な体験』を書きます。『ヒロシマ・ノート』、『万延元年のフットボール』『洪水はわが魂に及び』『同時代ゲーム』『雨の木(レイン・ツリー)を聴く女たち』『燃えあがる緑の木』(三部作)などが有名。1994年、ノーベル文学賞受賞。今もお元気です。(2022年・令和4年10月現在。)

 大江さんと親交のある方に、前掲の伊丹十三さん以外に、武満徹氏、山口昌男氏がいます。

大江さんの文学は、戦後民主主義、天皇制、民俗学(文化人類学)、光さんとのこと、メキシコや欧米での国際的な活躍、リライト、左翼思想(リベラル)、現代音楽、イェイツやブレイク、ダンテなどの引用や参照などブッキッシュな作家ぶり、などが主な特徴です。

 今回取り上げる、『燃えあがる緑の木』(三部作)は、その中でもライフ・ワークともいえる記念碑的な作品です。これについて、ちょっと述べてみます。

あらすじ

 あらすじは以下のとおり。

 もともと、大江さんは、「四国の谷間の村」を舞台にした、多くの作品を残しており、その中の、『懐かしい年への手紙』という作品の、後日談にあたるのが、この作品です。

 この「四国の谷間の村」で、村の長老の女性オーバーが、「新しいギー兄さん(以後、ギー兄さん)」を後継に選び、死去します。オーバーの葬儀が行われ、ギー兄さんはオーバーから何か特別な力をゆずり受けたのか、「お手かざし」のような治療を行うようになります。ギー兄さんは教祖のようになり、教団のようなものを作り始めます。もとは男性で、性転換で女性になった語り手のサッチャンは、教祖となったギー兄さんと性的に結ばれます。(第一部)

周辺住民やジャーナリズムはこの教団を非難しますが、教団に人は増え始め、賛同者が集うようになります。音楽会が開かれますが、ギー兄さんは期待に反して、うずくまり何もしゃべれない。サッチャンは失望して教団を離れます。(第二部)

サッチャンは作家のK伯父から提供された伊豆の別荘で、本を読みながら自己毀損的なセックスをする日々をおくります。そこに、ギー兄さんが学生時代に関わった新左翼から襲撃を受け、車椅子と癲癇発症の危機にあるという知らせが届き、サッチャンは四国へ戻ります。教団は拡大しますが、内部分裂も起こり、ギー兄さんとサッチャンは性的に結ばれてサッチャンは身ごもります。ギー兄さんは再び新左翼の襲撃を受けて死に、教団は流れ解散します。(第三部)

本論

要するに、四国の新興宗教興隆と衰退、解散までを描いた作品です。

ちなみに、この作品完結の直後、「オウム真理教事件」が発生し、この作品はその予言(預言)的作品といわれました。当時の新興宗教ブームを代表する、時代を反映した作品です。

作品そのものは単純で、四国の「谷間の村」という田舎に発生した新興宗教の教祖が、あたかも和製のイエス=キリストであるかのごとく振る舞い、人を救ったり、教団を作ったり拡大させたりするが、襲撃を受けて死に、教団は流れ解散、と、それだけの作品です。

わりと陳腐といえば陳腐で、単純といえば単純。しかも、オウム真理教の場合も少し似ているが、ろくな教義すらないわけです。超能力で治癒させるとか、そういった類いです。それでも、はたして宗教とは何か、については、考えさせられます。そもそも、人を救う、とは、何でしょうか。目の見えない人にお手かざしをして見えるようにするのは、一種の救済ですが、これは場合によっては、医療行為とも言えます。医学によって人を救うことは、しかし宗教と言えるでしょうか。

今、ちょうど旧・統一教会の問題で政治や国会が揺れていますが、このニセキリスト教は、悪徳商法、洗脳事件、合同結婚式騒ぎと、問題だらけです。オウム真理教も、猛毒のサリンを撒くテロリスト集団。こういった連中のやっているいわゆる新興宗教が、本当に人を救っているといえるのでしょうか。日本でも、創価学会や幸福の科学など、大きな新興宗教もありますが、これらの人々の宗教といっているものは、本当にまともなのでしょうか。まあ、これは、今取り上げた日本の代表的な新興宗教以外にも、伝統的な宗教、つまり、キリスト教や仏教、神道、イスラム教、はては儒教だって、そうなのではありますが。

むろん、新興宗教批判、伝統宗教批判、つまり宗教批判が、主な私の主張ではありません。

人類史は、宗教史ともいえるほど、文明は宗教に依拠しているのです。

ただ、この作品を読むと、青年時代の90年代に、道で歩いていると、しょっちゅう怪しい新興宗教の勧誘があり、オウムの麻原彰晃が空中浮遊している胡散臭いチラシが新聞折り込みで入ったりしていたこと、新興宗教のダミーサークルの活動が活発化していた頃の事が、よく思い出されるのです。怪しい人について行ったら洗脳合宿だったり、胡散臭い宗教アニメ映画を見せられたり、友人と会ったら宗教の勧誘だったり、そういった時代だったわけです。家にも、ものみの塔などの宗教カルトの勧誘もありました。

これらの、ある種ジャンクな宗教めいたものは、今の成熟した私には、宗教まがいの、偽者にみえます。そもそも、強引な勧誘、悪徳商法、洗脳は、つまり犯罪に近いと思います。

私の考える宗教とは、損得勘定のない、利他的な、親切行為であると思います。

そして、主体的なものでなくてはならないでしょう。

この作品は、なんというか、ある種新興宗教のパロディです。

なぜ、90年代に新興宗教ブームが起きたのでしょうか。

昔の日本人は、山深い村の共同体で生きていました。

村の神社、鎮守の森、寺、祭り、村民の共同体。神主、坊主、村長。

しかし貧しく、しかも共同体では個人の自由はあまりなく、村八分の制裁もあって、

人々は豊かさ、個人の自由、学校や職場、生涯のパートナーを求めて、都会へ。

しかし都会は近代能力主義、勝ち負けがつく競争社会、そして個人の孤独。

そこで、都市の孤独や疎外、あるいは競争での敗北、心の不安につけこみ、

新興宗教が入ってくる。そしてそのメンバーになることで、ある種の「都市の村人」になるわけです。学校や職場といった機能集団も、帰属集団でもあります。だが、それらの帰属集団を持てなかった人々が頼っていった先の一つが、新興宗教だったといえます。

つまり、ある種の「新しい村」、ポストモダン社会の「村の再興」です。

だから、私は、別に、無下に新興宗教を否定するわけではないわけです。

だが、悪徳商法、洗脳、その他の強制は、やはりまずかろうと思います。

肝心なことは、もっと普通の形で、「新しい村」や、「村の再興」をすべき、ということでしょう。別に、怪しいカルトの新興宗教である必要性は、とくにないと思います。

どうせ、人に人なんか、救えないでしょう。救うフリをする人と、救われると錯覚した人だけで。それでも、何らかの互助性を、社会的動物である人間は、必要としていると思います。

本当はわりと宗教好き(特に伝統宗教)な私としては、それ以上特に言及することもないのですが、そもそも宗教とは何か、という問いを、いつも立てておくべきであろうと思います。

主体的、利他性、財産の移動をあまり伴わない、が、本当の宗教。

従属的、利己的、財産をかっぱらう、が、ニセの宗教。

この、「四国の谷間の村」の土俗信仰とキリスト教の混ざったようなギー兄さんの宗教が、どこまで本当の宗教だったのか、は、誰にもわからないことです。

ただ、大江さんがノーベル文学賞を受賞する大きなきっかけともなったこの作品が、新興宗教のパロディであると同時に、そもそも宗教とは何か、人に人は救えるか、といった、大きなテーマを投げかけたことは、事実であろうと思います。ある意味、遠藤周作の『沈黙』や『深い河』(ディープ・リバー)』、三浦綾子『氷点』『続氷点』などの、日本のキリスト教文学にも近い意味を持つ部分も、あるだろうと思います。(むろん、大江さんは、クリスチャンではないのですが。)

ある意味、神仏は、もし存在すると仮定するならば、人を救えるのかもしれません。

しかし、たかが人間に、人を救えるのでしょうか。

この大きな問いが、この『燃えあがる緑の木』(三部作)の後ろに、存在すると思います。

伏流水のように存在する、大きな問いの存在。

特に新興宗教にも、宗教にも、あまり関心のない人にも、おすすめです。

気軽に、読んでみましょう。

参考文献

大江健三郎『燃えあがる緑の木』(第一部~第三部) 初版 一九九三年 新潮文庫 

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